日本のレジェンド投手『藤川球児』をピックアップ!


11月10日、また一人日本のレジェンド投手が引退を迎えました。

その名は、『藤川球児』。

引退試合を迎えた藤川球児投手が現役最後のマウンドに上がると、詰めかけた今季最多21392人のファンから大歓声が響きました。

この記事では、そんな藤川球児をピックアップしていきます。

所属チーム:阪神時代

藤川投手と言えば、やはり「阪神」というイメージが強い方が多いでしょう。
藤川投手は、高校卒業後1998年のNPBドラフト会議で阪神タイガースから1位で指名を受け、30番の背番号で入団を果たしました。
翌年の1999年は、ウエスタン・リーグの公式戦でも3試合の登板にとどまったものの、2000年には初めて一軍登録もされ、プロ初登板も経験しました。
しかし、その後しばらくは目立った成績も残せない時期が続き中々苦戦していましたが、2004年5月、二軍生活を送っていた頃に、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の助言で中継ぎに転向したことを転機に、大きな飛躍を果たしていきます。
まず、2004年のシーズン後半には見事一軍に定着し、31回を投げて35三振を奪うことに成功、背番号を22へ変更した2005年シーズンではセットアッパーに定着、6月14日から7月20日にかけてプロ野球記録となる17試合連続ホールドを記録し、6月には月間MVPも初受賞しました。
2006年には、6月に抑えの久保田が怪我で離脱したことで抑えに定着、豊田清が持っていた連続無失点日本記録を更新するなど、抑えでも獅子奮迅の活躍を見せました。

所属チーム:カブス、レンジャーズ時代

藤川投手は、2007年以降数回にわたり球団にポスティングシステムの行使を申請し、メジャーリーグ(MLB)挑戦を希望していることを表明しましたが、いずれも球団はそれを拒否。

結果、2012年まで先延ばしとなりましたが、2012年12月2日にはシカゴ・カブスと2年総額年俸950万ドル+出来高で契約合意をし、開幕戦となった4月1日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦の9回二死の場面で念願のメジャーデビューを果たしました。

その後は好投を続けていた時期もありましたが、度重なる故障も重なり思うような投球ができなくなっていきました。

また、カブスとの契約を満了したあとにはレンジャーズとの契約合意にも至りましたが、目立つ成績を中々残すことが叶わず、レンジャーズを自由契約となったあとには、阪神からのオファーを拒否して四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスへ入団しました。

WBCでの逸話

藤川投手は、当然ながらWBCにも出場を果たしています。

国際大会で世界一も経験している素晴らしい投手ですが、全てが順風満帆かと言えば、必ずしもそうではありませんでした。

たとえば、2006年大会では、2次リーグの米国戦でサヨナラ中前適時打を許し敗戦投手になったこともあります。

そして2009年には、決勝で守護神をダルビッシュに譲り、藤川投手は世界一の瞬間をブルペンで迎えるという憂き目にもあったのです。

しかし、あるインタビューで本人に当時のことを聞くと、「そんなこともあったねぇ。でも、何も恨み言とかないよ。僕らはみんなで勝ったんやから」と振り返っていました。

何より、WBCの06年大会、09年大会での藤川投手の成績は、計8試合、6回2/3で自責点0の防御率0・00とさすがの一言。

引退は悲しいですが、これまで素晴らしい勇姿を見せてくれた藤川投手には感謝と労いの言葉を述べたいところです。